ぐうのね雑記

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「寸暇」必要論

寸暇を惜しんで働く、という言葉がある。

 

僅かな時間も無駄にせず働くという意味だ。

私も10代はこの寸暇、つまり僅かな時間(今で言うスキマ時間だろう)を勉強や生産的なタスクで埋めることに躍起になっていた。

 

スケジュール帳に少しでも空き時間があれば何かしらの予定を詰め込み、効率的に1日を過ごそうとしていた。

 

20代は20代でネットを活用したくさんの人と関われるようになったことで、それに夢中になっていた。

暇さえあれば出先でもスマホやPCを立ち上げ、ネット記事を読んだりオンライン通話をしたりSNSを更新したりという日々だ。

 

そのときはもちろん楽しかった。

ただ最近はSNSやネットを利用する時間をかなり減らしたこともあって手持ち無沙汰な時間が増えた。

 

中国、北宋の文学者の欧陽脩(おうようしゅう)の言葉で、「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。すなはち馬上・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)なり」という言葉もある。

 

要するに「文章を考えるのに都合がいいのは馬に乗っている時、寝床に入っているとき、便所に入っているときである」ということなのだが、これに共通するのは手持ち無沙汰な時間であるということだ。

 

現代に馬に乗る人は少ないが、つまり移動中と考えればなるほど電車やバス内は手持ち無沙汰だ。ベッドに入って寝付くまでもそうだし、トイレに入っているときもそうだ。

 

しかし最近は乗り物での移動中のみならず枕元や食卓、なんなら風呂などでも防水のケースにスマホを入れていじっている人は多いらしい。

 

手持ち無沙汰な時間、暇な時間にスマホをいじれば楽しい動画や面白い記事などが目に入る。格好の暇つぶしである。

 

だが私は、あえてこの「手持ち無沙汰な時間」(寸暇と言い換えてもいい)を大切にするべきではないかと思うのだ。

 

 

というのも私はぼんやりと物思いにふける時間、考えるほどでもないことを考える時間というのは脳には休息になるだろうし、思いがけないアイデアなどもわきやすいのではないかと考えている。

それすら何かしらの娯楽や連絡や情報収集などで潰してしまうのはもったいないと思う。

 

ニュートンがりんごが落下するのを見て万有引力を発見したという有名なエピソード(本当かどうかはわからないが)の時も、彼もそうやって物思いにふけっていたのではないか。

 

そういう「何をするでもない時間」というのは人間には必要な気がするのだ。

 

だから、やたらめったらに暇つぶしを探すのではなく、たまには暇にまかせてぼーっとするのもいいのではないかと思っている。